手書きへの回帰

 30歳少し前から私はパソコンに夢中になっていた。NECのPC8801mkⅡ。その上位機種に9801mkⅡというのがあったが、とても高価で買えなかった。8801mkⅡですら高価なものだった。電気店の入口にはパソコンが広範囲に置かれ、マイナーチェンジではあるが新機種が続々と出て、それを見ては心を躍らせた。あの匂いがいいんだ。パソコンの匂い。何か新しい可能性を予感させてくれる匂い。『Oh!PC』という月刊誌を購読し、パソコンの機能、新製品を隈無くチェックした。より性能のよいパソコンをいずれは購入しようと胸を躍らせた。
 夢中になったのはプログラム作り。ベーシック、C言語、マシン語と、より高度なことを実現できるプログラム言語を求めて次々と勉強した。無理数や円周率の値を求めるプログラムや、今で言えばエクセルのような表計算のプログラムを作った。ミシン目のついた連続紙にプログラムを印刷しては、それを部屋いっぱいに広げ、バグをチェックした。
 当時、円周率の計算において世界的な実績を持っておられ、その後東大の教授になられた金田康正さんに連絡をとりたくてニフティサーブに入り、数学フォーラムに顔を出したのもその頃だ。数学専門書を何人かで学習していくパソコン通信上のサークルにも参加して、疑問点を教えてもらったりもした。身近に数学の学習をしている人はいない。家にいながらにして学習仲間を得ることができる素晴らしさを経験した。
 当時は正確で速く処理できるプログラムを作ることが喜びであった。プログラムの勉強をして、そのプログラムを使って作品を作る。その作業はとても楽しく、まるでプラモデルを作る楽しさに似ていた。膨大な時間を費やしたが、少しも苦にならなかった。
 ところが、ある頃から疑問が湧いてきた。私はこの数年間、膨大な時間を費やしてプログラムの勉強をしてきたが、そのことで私の能力は高まったのだろうか。思考力は深まったのだろうか。感性は豊かになったのだろうか。
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 孫悟空がお釈迦様に言われた。「お前が何でもできると言うなら、私の手の平から抜け出てみよ」「そんなの朝飯前よ」と悟空は金団雲に飛び乗り猛スピードで飛ばした。もう随分と飛んだ。クタクタになり、もう飛べない。とっくにお釈迦様の手の平から抜け出たはずだと思ったとき、地平線に大きな柱が見えてきた。何だろうと思ったら、それはお釈迦様の指だった。悟空には、これ以上飛ぶ力は残っていなかった。
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 私は、プログラムの勉強をして作品を作り、無限の力を得たような気持ちになっていた。何でもやっていけると。しかし、人が作った機械とプログラム言語という有限のものを組み合わせて有限のものを作っていたに過ぎないのではないか。作ったものが例え優れていたとしても、私という人間は何も成長していないのではないか。
 この虚無感に私は慌てた。夢中になった度合いが強く大きかっただけに、立っている世界が崩れていくのを感じた。
 数学の学習においては、このような虚無感を感じることはなかった。それどころか、感動の連続であった。人類が積み上げてきた数学の世界の一部を摘まみ食いした程度であるが、その世界は美しくドラマチックであった。
 厳しい坂道を登り木々の生息が途絶える地帯に入ったときに目にする何種類もの高山植物。その美しさ、健気さ、力強さ。爽やかな風。空気の匂い。降り注ぐ太陽の光。5感を通して感じる感動は、そこに辿り着いた者にしか得ることはできない。数学の学習ではこのような感動を得ることがある。
 多くの疑問を引き摺りながら考え続ける。それは結構しんどい。それでも考え続ける。その思考は無意識の世界でも続く。それが、あるとき突然に意識化され解決の糸口が見えてくることがある。その瞬間、美しい高山植物が目の前に見える。花園のようだ。風が吹く。光を感じる。ああ、なんて美しい世界なのだろうと陶酔する。数学はアートだと感じる。この感動があるから考え続けることができる。その理解の後、更なる新たな疑問が生まれることになるのではあるが、そのようなことは苦にはならない。
 また、数学書は小説のようでもある。定義A、定義Bから定理Cが生まれ、定義D、定義Eから定理Fが生まれる。定理Cと定理Fは恋に落ち、あらたな展開へと繋がっていく。様々な登場人物がそれぞれの輝きをもち、一つの世界ができあがっていく。その様子はドラマチックであり、感動の連続である。
 しかし、パソコンやプログラム言語の学習ではアートを感じることも小説を感じることもなかった。
 無限の可能性が広がるような気がしていたのだが、実は有限のおもちゃで遊ばせてもらったに過ぎなかったのではないか。この数年間の勉強で何か得たものがあったのではないかと自問したが、思い付くことは少なかった。
 パソコンの知識やプログラム言語を身につけても、自分を高めていくことはできないのではないかという思いが強くなっていった。
 パソコンとプログラム言語の学習の時期はワープロへの移行の時期でもあった。文字を容易に活字にすることができる。作った文章の一部を修正して再利用できる。データ検索が速く容易にできる。これらは画期的なことだった。自分の持てる力が10倍、20倍にもなるような気がして積極的に使用した。最初の頃は手書きしたものを清書するという使い方だったが、ブラインドタッチを身につけた頃から、手書きすることもなく直接キーボードで文章を書くようになった。簡単に修正できるという安心感から、思い付いた部分の文章を取り敢えず打ち込み、後で組み立てるというような書き方が多くなった。書くスピードが速い。容易に修正・訂正ができるという快適さ。この快適さに酔いしれた。タイピングの音も心地よく思われた。数学のノートもワープロで書いたりもした。明解で美しく仕上がったノートを見て、数学の力も伸びていくような気持ちになった。
 しかし、何年かして「異変」に気がついた。
 手書きで文章を書くことができなくなってしまったのだ。以前は頭の中である程度文章の全体構造を作り、それを手が紙の上に書き上げてくれていた。ところが、ある頃から文章全体のことを考えることができなくなってしまった。ペンを持っても、何をどのように書けばよいのか、まるで手足を捥ぎ取られたように為す術がないという状態になってしまっていた。
 私はどうなってしまったのか。以前だったら30分くらいでさっさと書いていたものが書けない。美しく仕上がった数学のノートを見ても、その結論までの過程を思い出せない。行間が見えない。ここはどうしてこのような理解をしたのか、ほとんど思い出すことができなかった。
 これはどうしたことか。何故、手書きができなくなってしまったのか。何故、数学の途中経過を思い出せないのか。私は再び大いに慌てた。自分の頭と手が自分のものではなくなっていくような気持ちになった。恐怖すら感じた。自分が自分でなくなっていく。
 しばらく考えて結論を出した。
 恐らく、私自身が身に付けてきた思考の仕方やリズムと、パソコンを使ったときの脳のはたらきが違うのであろう。そして、このままハードにパソコンを使い続けた場合、二度と手書きの世界に戻ってくることはできないだろう。
 今なら間に合う。パソコンと距離をとろう。そして、手書きを大切にしよう。
 その後、手書きで文章を作るリハビリに取り組んだが、元の状態に戻るまで一年くらいかかっただろうか。失った能力を回復させるのは結構大変だった。実は、そのときの苦い思いとリハビリ経験の延長線上に「萬年筆くらぶの発足」がある。

 パソコンの魅力を一通り味わい、パソコン一色になってしまったら、失うものは決して小さくないということを経験した30代だった。
 パソコンの力を借りなければできないことがある。手書きにしかできないことがある。この両方をうまく使い分けていく決意をした30代でもあった。
 その後、ウィンドウズ、インターネット、光、スマホ、SNSと情報社会は多様化・巨大化してきたが、私はペンを握りしめて、パソコンとの付き合いは必要最小限に留めてきた。

 60代となったいま、私は萬年筆くらぶとフェルマー出版社のHP、そして「でべその書斎」、「でべその散歩道」、計4本のウェブサイトを持っている。ほとんど開店休業中だが、ときたまゴソゴソと仕事をやりに行く。
 そんな程度のものだが、こんな私に付き合ってくれるお客さんはそれなりにいるからありがたいものだ。