ミッドナイトブルーのインク

 まだ暗闇の濃い早朝、散歩に出掛ける。
 星の瞬きが見える。
 静粛が身体を包む。
 時折、小鳥のさえずりが聞こえる。
 しかし、まだ暗くて鳥たちは飛び立つことはできない。
 冷たい風を頬に感じる。この風が気持ちいい。

 2019年9月、体調を崩した。全身に発疹が出て、じっとしていられなくなった。椅子に座っていることができない。食事もできない。あまりの突然の異変に冷静ではいられない状態になった。唯一できることは屋外を歩くこと。風を頬に受けながら歩いているうちは比較的平常でいられた。ところが、3日目、歩いている途中で倒れてしまった。ろくに食べていないのだから当然のことである。
 歩けなくなり、立てなくなり、意識が遠退いていった。郵便配達の赤色のバイクが見えたので助けを求めた。全身が痙攣して呼吸困難となり救急車で運ばれた。救急隊員が私の瞳をペンライトらしきもので照らし、早口で「左目のナントカカントカの反応がありません」と言っている。このシーン、映画で見た! オーイ、俺はまだ死んでないぞー。
 このまま死んでしまうのか…と死を意識したが、死への恐怖は感じなかった。何が起こっているのかも理解できない状態。目を開けることもできず、暗闇の中で、遠くから聞こえてくるような救急隊員の声を聞いていた。
「中谷さん、もうすぐ病院に着きますからね。大丈夫ですよ」「呼吸をゆっくりしてください」
 ピーポーピーポーと救急車のサイレンが聞こえる。自分が乗せられている救急車のサイレンの音なのに、どこか他人事だ。
 死ぬ瞬間て、こんなにも静かなものなのかと思った。

 その数ヶ月後、頬に風を感じながら再び歩いている。風には人の心を癒やす力がある。風を頬に感じるとき、生きていることの喜びが湧き上がってくる。
 生きている。生かされている。これ、言い得て妙だ。生きていることが当たり前、ではなくなった。
 海老名駅周辺を通る。日中は多くの人が行き交う駅だが、早朝だから歩いている人はほとんどいない。見慣れた光景であるが、新鮮さを感じ、見知らぬ駅に辿り着いたような錯覚に囚われる。エスカレーター付近から「手や顔を出すと危険です。御注意ください」という録音の声が、誰もいない空間に響き渡っている。 
 無機質な空間を背にして歩き続ける。
 途中、公園のベンチで休憩。お茶を飲みながら夜空を見上げる。まだ暗闇だが少しずつ青味が加わってくる。その青さが徐々に濃くなってきて、暗闇の空が劇的に変化する。その時の空の色がミッドナイトブルー。
 この色だ。
 これを見たくて早朝の散歩をしているとも言える。
 青味を帯びた黒色。黒味を帯びた藍色。紺碧。透明感があり、暗いのに光を感じる。その所為か、優しさを感じる。と同時に力強さも感じる。深海で展開されるであろう、静かな美しさと優しさ。青の時代に描かれたピカソの自画像に漂う憂いと強い決意。想像は尽きない。
 視線を下ろすと、ミッドナイトブルーを背景にして建物や木々がシルエットとして浮かび上がる。なんて魅力的なんだろうと自然の演出にしばらくの間見とれてしまう。
 スペインへの旅で見たミッドナイトブルーの空の色が忘れられない。日本のミッドナイトブルーとは違う。日本の空は白っぽい空色。薄い青。しかしスペインの空は濃い青。そして夜空の黒も濃い。日本のように街頭で明るくされてはいない。漆黒の空。その濃い青と黒が混じって生じるミッドナイトブルーは格段に深みがあり鮮やかな色なのだ。
 ある画家はスペインに行くときは青系の絵の具を多めに持って行くという。そうしないと絵の具が足りなくなり空を描くことができなくなってしまうらしい。
 あの空はもう一度見たい。あの空を見るためだけにスペインに行くのもいい。
 この朝のミッドナイトブルーのショーは十分程度で終わってしまう。次第に空は明るくなり、白っぽい青色となってくる。何事にも終わりがあるものだ。また明日来よう。私は立ち上がり帰路につく。

 わたしはモンブランの、1950年代に作られたロイヤルブルーのインクを使っている。30数年前、ビニール製の大型の容器に入れられた業務用のインクを入手した。ビニール製の容器では不安なのでサントリーのウィスキー・リザーブの瓶に入れ替えた。そしてモンブランの50ミリリットルのハイヒール型のガラスの小瓶に小分けして使い続けている。何しろ60年前のインクだ。水分が飛んで色が濃くなっている。
 この、60年の時を経た、今日私が使っているロイヤルブルーのインクの色が、「ミッドナイトブルー」なのだ。忘れられない、あのスペインで見たミッドナイトブルー。それが私の愛用の万年筆のペン先から紙の上に拡がるとき、私は無類の喜びを感じてしまう。ミッドナイトブルーの深い色に、60年の時の流れを重ね、今後の人生を照らしてくれる明るさと力強さを感じている。

 そんなインクも残りが少なくなってきたようだ。インクが入っているリザーブの瓶はガラスの色が濃く、インクの残量を目で確認することはできないが、小瓶に移し入れるとき、ボトルの傾け具合と液体が流れ出るときに生じるトクトクトクという音で「美酒」の残りがどのくらいであるかが推察できる。
 このインクが尽きるのが先か、私の命が果てるのが先か、というところだなと愉快な気持ちでリザーブのボトルを再び書斎の棚に置く。