満点の星空色のインク

 『ミッドナイトブルーのインク』を読まれたKさんから、このような手紙をもらった。

 「あの空はもう一度見たい。あの空を見るためだけにスペインに行くのもいい。」
 私はスペインに行った事は無いので想像する事すらできないのですが、その気持ちは良く分かります。私にとっての「あの空」は辺りに明かり一つ無い土地から見上げる夜空です。満天の星空。薄白銀に輝く天の川。黒いはずなのに決して黒くない天空。プラネタリウムでは再現できない空を私はまだ色で表わす事ができません。あの空をインクで表現できる会長が羨ましいです。いつの日か、あの夜空の色のインクを使ってみたいものです。
 でも、まずはあの空をもう一度見る必要があります。しかし、今は田舎や山の中の宿に泊まっても辺りは明るく、また夜中に宿を抜け出しのて遠出する訳にもいかず、旅に出ても見る事ができなくなってしまいました。もし、そのような鄙びた良い温泉宿をご存知でしたらご紹介くださいますようお願いします。あの吸い込まれそうになる星空の色を再現するために。

 私はこの手紙を読んで、ある「小さな事件」を思い出した。
 そのとき私は、画家の古山浩一さん達と一緒にスペインのモンテフリオという村にスケッチのために来ていた。
 旅は出発の前からそれを楽しむことができる。モンテフリオはアンダルシアの白い村を代表する存在のひとつで、「スペインで最も美しい村」と観光ガイドブックなどで紹介されている。稜線が斜めに走る切り立った三角形の丘の上に建つムーア人の城の遺跡と教会。切り立った急斜面を登るジグザグの道。その道に並ぶ白い家々。教会や遺跡は勿論のこと、道端や家並みにもその時々の歴史が刻み込まれているに違いない。なんて美しい光景なのだろう。出発前の数ヶ月間、何度となくその美しい光景を写真で見ては、私は心を震わせた。
 まずはこの写真と同じスポットからの風景を描こう。そして描き終わったら、このジグザグの道を登っていくのだ。斜面に建つ白い家々、階段、急な坂道、それらをスケッチしよう。座り込んで描いていると地元の人が声をかけてくれる。時には庭で採れたブドウを差し入れたりしてくれる。猫がノッソノッソと歩み寄り、隣にチョコンと座ることもある。しばらく寝転んでいたかと思うと、おもむろに起き上がり再びノッソノッソと歩いていってしまう。そのような交流やひと時も楽しもう。私はモンテフリオでの一日の流れを思い描いては、旅立つ前の時間を楽しんだ。
 果たして、その光景は想像以上のもので、私に感嘆の声をあげさせた。隣の村から車で一時間。遙か彼方まで続く広大なオリーブ畑。その中に立ち上がる切り立った丘。白い家々。真っ青な空。アンダルシアの光が輝き、緑色の風が吹き抜けた。
 早速スケッチブックを開き、ふでDEまんねんを取り出した。待ちに待った瞬間だ。それから一時間余り、夢中でペンを動かした。
 素人の私にとっては絵の出来は二の次だ。日本から遠く離れたこの地で、憧れの光景を目の前にしている。この現実こそが貴重で感動的で、余りあるほどの幸福感に浸ることのできることだった。
 切り立った丘の遠景スケッチが終わり、いよいよ白い家々が並ぶ丘のジグザグの道の入り口に立った。第2ステージが始まる。
 期待に胸膨らませながら急勾配の坂道を登っていくと、あちらこちらで犬が吠えていた。縄張りがあるらしく、縄張りを越えて入ってくる他の犬を吠えながら追っていく。その鳴き声の余りの大きさと必死さに一瞬足が止まった。全力で走ってくる犬を見て思わず後退りした。椅子を出して座ろうものなら私が攻撃の対象にならないとも限らない。
 白い家々は奥行きがなかった。家のすぐ後ろは崖なのだ。広くできるはずがない。崖が崩れれば命の保証は無い。家具や荷物が玄関先まで溢れるように置かれている。家の窓や壁には装飾性のあるものは見られず、汚れた白い壁面が続く。犬の糞があちこちに散乱している。
 酔っ払っているのか赤い顔をした老人が何か叫んでいる。とてもではないが、この空間に腰を下ろして、ゆっくりと目の前の光景を描こうという気持ちになんかなれなかった。遠くから見たときには美しさが凝縮しているような空間に思えたのだが、それは単に勝手な思い込みだった。そのギャップの大きさに慌てた私は少し冷静さを失っていた。
 早くこの場を離れなくてはならない。犬がものすごい勢いで吠えている。狂犬病は恐い。犬が徒党を組むと恐いと聞いている。足を速めながら、惨めな思いになっていった。この空間でのんびりとスケッチするはずだった。何ヶ月も憧れ続けたことだった。しかし、そのような自分の姿は粉々になって砕け散ってしまった。
 その日の夜、その「小さな事件」は起きた。
 夜中に停電したのだ。部屋の中は真っ暗になり、手探りで窓まで行き窓を開けた。外も真っ暗闇だ。何ひとつ明かりは見えない。どうやら村全体が停電しているらしい。明かり一つ見えない。美しくライトアップされていた切り立った丘の斜面に並ぶ白色の家々も闇の底に沈んでいた。村の周辺は広大なオリーブ畑が拡がる。その周辺は当然漆黒の闇だ。隣の村まで車で一時間。モンテフリオの村は完璧な暗闇の中に閉ざされてしまった。
 ところが暗闇の上空には、その暗闇とは混じらない満天の星空があった。これほどの無数の星があったのかと驚愕するほどの星、星、星。漆黒の夜空は無限に小さな光の点までも見せてくれ、星は点ではなく面を成していた。1等星や2等星はより鮮やかに光り、星座の形が浮かび上がっている。ミルキーウエイも文字通りミルクを夜空にこぼしたかのように流れている。まるで地上にこぼれ落ちそうだ。
 Kさんの言う「満天の星空の色」。それが正しくあの時の夜空の色なのだ。Kさんは「満天の星空。薄白銀に輝く天の川。黒いはずなのに決して黒くない天空」と表現されている。私も全く同感だ。あの時の夜空の色は黒ではなく薄く白を感じるものだった。それは花粉の黄色を映し込んだクチナシの花弁の色。長年使った三省堂のジェム国語辞典の紙の色。
 この夜空の色をインクで表現してみたいとKさん。
 色を捉えるのは難しい。でも面白そう。
 インクの名前だけは考えた。ミルキーナイトブラック。いやミルキーナイトホワイトかな。
 Kさん、星空の色を再現するために、一緒にモンテフリオに行きましょう。