切手携帯ケース

 旧国鉄のことをJRと呼べるようになるまで十年位かかった。私はJRになっても、国鉄と呼び続けた。民営化には賛成できなかったからだ。しかし、何時しか国鉄では通じなくなり、仕方なくJRと呼ぶことなってしまった。
 福知山線の事故の際、多くの人が西日本鉄道に対して抗議の声をあげた。会社の体質に対する抗議は尤もである。しかし、体質以外の抗議には、私は何か割り切れない思いを持った。大赤字を解消すべく民営化された国鉄。当然の如く人員削減と営利追求が実行された。一方で、私たち国民は乗車時間の短縮やダイヤの正確さを求めた。電車が少しでも遅れると駅員に食い付く人もいると聞く。安全対策の欠如が指摘されながらも、赤字解消の声に掻き消されていき、安全対策は二の次となっていった。国益優先、民営化、合理化を実行してきたのは、私たちが代表として国会に送っている議員であり、つまりは私たち国民なのである。福知山線の事故に関しては、今日の社会のあり方、そして私たち一人ひとりにも責任の一端があるのではないかと当時自責の念をもった。
 ケータイとカタカナで書いて携帯電話を意味していた。これはパーソナルコンピュータをパソコンと短縮して呼ぶ類のもので、先のJRとは本質的に異なるのだが、私はなかなか「ケータイ」とは呼べず「携帯電話」で通した。携帯電話が普及することにより私達の生活に生じた変化に対しての、これで良いのか? という思いが理由の一つだった。便利であることがそんなに重要で大事なことなのか? そんな思いが、私にケータイと呼ばせないでいた。頑固親父のひと昔前の話である。
 さて、前置きが随分と長くなってしまった。今回話題にしたいものは、切手の携帯ケース。アンティーク品だ。材質は木で、木の回りに質の良い型押しの薄い革が張ってある。その仕事振りは繊細の一言に尽きる。洗練された職人の技術により生まれたこのケースは、革の何カ所かある継ぎ目すら美しく見える程の出来栄えである。職人の技術の高さに惚れ惚れとしてしまうような逸品なのだ。
 当時の人たちは、このような美しいケースに切手を入れて、万年筆と共に旅に出た。旅先で見たもの、考えたことを誰かと共有するために携帯したのだ。旅先で、そのような時間を持つことは旅の楽しみの一つでもある。書くことにより自分の意識がより明確になり、他者と共有することにより喜びが深まる。この切手携帯ケースはそのような時間を演出する小道具の一つなのである。
 美を求め、時間をかけて丁寧に作り上げられたこの切手携帯ケースは、営利追求や利便追求の精神とは無縁である。他者とのコミュニケーションを大切にする素朴な価値観と喜びに溢れている。だから私はこの切手携帯ケースを見るとき、ほっとした気持ちになれるのだ。
 営利追求のために命を落としてしまうような社会、ぼんやりしていると何が真実なのか分からなくなってくるような現代で、ちょっと立ち止まらせてくれる、そのような力がアンティーク品にはある。
 私たちが忘れてしまいそうになっている多くのことを、アンティーク品は語ってくれる。アンティーク品がもつ、魅力の一つである。

      万筆専門店・万年筆博士発行『HAKASE通信』での連載(その4)